昭和47年01月16日 朝の御理解
御理解 第12節
「神に会おうと思えばにわの口を外へ出て見よ。空が神、下が神。」
ここで神に会おうと思えばと仰っとられます神というのは、勿論天地金乃神様のことでございますね。天地金乃神様。本当に空が神、下が神というなら天地そのものを神様と仰っとられる訳ですけども、本当に天地を拝する、天地を拝むという、ひとつの実感が、ね、そこに有り難いとか、勿体ないとか、あいすまんという事につながっておらなければ神様を感じた事にはならん訳です。
お話を頂けば頂くほど、天地の御恩恵の中に私共が生かされておるのであり、天地の御恩徳の中に生かされておることの自覚があろうがなかろうが、神様はおかげを下さってある。ですからそれをおかげと感じると感じないというところに感じる、感じた人は神に会うた事になるのであり、それを感じない人は神に会えない事になるのです。昨日、善導寺の原さんがお届けをしておられましたが、十二日の日にあちらのお導きで年に何回か参ってみえる方があります。
あるお伺い事でお参りをして、そして御神米を頂いて帰っとられた。ところが原さん昨日ですか一昨日の事でございましょう。子供さんがしゃっくりを起こされたんですね。どうしてもそのしゃっくりが止まん。一日そのしゃっくりが続いた。体に斑点がでけてくるそうですね。しゃっくりが止まんと。大変心配をしてハァーほんに昨日御神米を頂いてきておったから御神米を頂かせようと思うて、一心に願うて御神米を頂かせたら途端に止まった。有り難いと思うて神様にお礼を申させて頂くと同時に。
主人が勤めておられる帰ってみえたから、もう今日はこんな事でしたというてそのまそこに神様を体験した、その神様の働きを。その事をいうたら、そりゃま良くなると良うなっとたいちいうてからま、いわっしゃったというお届けがございましたがね。子供がいわば助けて頂いても、母親はそこに神を見、又は神を感じておるけれども父親の方はそこにそういう特別な霊験を頂いておっても、神も神とも感じきれない。そこにね、人間のいうなら幸不幸というようなものの分かれ道があるように思う。
そこでお互い信心の稽古をさして頂きまして、本当にその神様がです、ね、もうやはりお道でいう神様は、も偉大というてもま、これほど偉大なことはございませんよね。天地金乃神様。いわば大きな神様なんです。これより大きな神様はありますまい。その大きな神様を大きな神様として頂かしてもらい、分からしてもらうという事。ここでは庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神と。神様が分かりたいと思う。ね、
本当に神様を頂きたいと思う。夕べ夜のご祈念の博道先生が当番でご祈念、そして御理解を聞いて頂いておりましたが、最近信心にいうなら分からないところがでてきた。でその事でまぁ悩んでおるという事を話しておりましたが、ね、確かにその親先生と一緒におれば確かにその親先生に現れなさる神様をそこに見たり感じたりすることがでけるんだけれども、ね、けどもなら自分ひとりの上に神様を感じ得ない、感じられない、というところにまぁ悩んでおるとこういう訳なんです。
私はやはりね、その悩まなければ、本当の神様にはお会いでけないと思うですね。だから神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよと仰る。これはいわゆる天地をそのまま神様と見れば、なるほどこれが神様かというくらいなことでしょうけれども、神に会おうと思えばです、やはりひとつ難儀に直面してみよ、難儀に直面した時に神様に打ち向かうてみよ、という事もいえると思うです。いうなら難儀の中に神様と面会することができる。ね、困ったと思う時に神様とお会いすることがでける。
今の原さんところの近所の方ではないですけども、奥さんの方は子供がしゃっくりを出て止まないのを一日中見ておりますから、そこに難儀を感じられた訳です。ところが御主人はそれを見ておられません。ね、どの様に子供が難儀したか、どの様に家内が心配したかということは分かりません。だから、そりゃお前、時のきたなら治ったという程度しか頂けなかったけれども、いよいよ心配をした。そこに難儀を感じられた。
その難儀の感じられた中に生きた神様の働きを見せて頂いて、神様のおかげでとこう神様をそこに感じとられ、ま、神様と会うことがでけた訳なんです。そういう例えば繰り返しをさせて頂いとるうちにです、例えばそういう困った時だけに現われなさる神様ではなくて、この神様のおかげを頂かなければです、実をいうたらここ一寸動く事すらもでけないほどしの大きな神様の働きを感じるようにだんだんなってくるのです。
昨日久留米の佐田さんがお届けをしておられましたが、本当にあのおかげを頂いとるなと思うんですけども、あちらの息子さんが恵介君というのがおります。いま小学校二年生ですか、三年生でしょうか。子供ながら熱心。この頃ね、毎日そのお母さん今日おかげ頂いたありがたかったというて帰ってちいうんですよ。何がそげんありがたかったのちいうとちゃっとほんなことそこに神様を感じておるということがね、有り難いというてお母さんが昨日お届けをしておりました。
昨日「?」学校から帰ってきて、お母さん今日おかげ頂いた。僕はとても有難かったちいうて、も本当に有難かった実感をね、母親にその話するんだそうです。なかなか頭の良い子ですけども、中々あの学科でも得手と不得手が非常にはっきりしておる。特にこの運動なんかあんまり運動神経が発達してないちいう訳でしょうかね。所がそのまぁ今日はマラソンがあったという訳ですね。まマラソンとても学校の周囲を何回か回るという事でございましょう。そしたらね。
ずうっとその一番から二番、こうまぁ運動場に入ってくる、子供達を先生がはい一番二番三番といわれた時に恵介君がちょうど背中を叩いて十三ばぁんといわっしゃったげな、先生が。もそん時にえらぁい僕は感動したち(笑)皆さん分かるですか。十三番といわれた時にですね、僕は感動したち、も今日はおかげ頂いとる。も、その例えばね、十二番であってもいけなかった。
十四番であってもいけなかった、勝つとか負けるとかでなかった。僕は十三番、僕はいつうも天地の親神様のお守りを受けとる、という実感をしたというたんだそうです。だからお母さんの方が感動してから本当恵介君おかげ頂いとるね、というて親子で喜び合うたとこういうのです。十三といゃここでは十三日会というものここで信心共励をいたしますだけではなくて、神の願いに応える。神の願いに応える日として十三日というものを皆さん大事にいたします。
神様に少しでも喜んで頂けれると、いう一日でありたいという訳です。午前中は外掃内掃といったほかの色んな事を一生懸命ご用さしてもらって、そして一時からは信心共励をするといったような十三日会とね、十三という日がいかに大事な合楽ではしとる日か、しかもそれは天地の親神様の願いが成就する日としてです、十三日という日を大事にする。それが子供ながらにも分かっている訳ですよ、ね。
も十三と、だから僕が十二番でもいけなかった、十四番でもいけなかった、十三番であったという事が天地の親神様の御守護を受けているんだと実感したらね、子供ながらにも感動したと。ね、合楽でだんだんおかげを頂いてまいりますと、そういう中にも神様の働きというかね、天地金乃神様、天地の親神様の御守護の中にある自分というものをはっきり感じて、神様の一分一厘間違いのない働きの中にこのようにおかげを受けておると、そこに神様をいつもあって神様に日のうち何回となしに面会がでけておる。
そりゃもうこうやっていつも家ん中におろうが、そりゃ外に出ておろうがね、それこそ畑で肥をかけておろうが道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおるような思いだと仰る。その実感がです、ね、だんだん小さくなってくる、小刻みになってくる。日に一回感じたものが、何回も何回もそれを感じる。それを例えば四六時中感じるというのが生神金光大神なんです。金光大神の境地なんです。ね、お道の信奉者全部が金光大神を目指すんだと。とりわけ合楽ではその事を最近はしきりにいわれております。ね。
金光大神をハァーいかにも大袈裟のようですけども、ね、金光大神を目指すという事はです、そこに神を感じるということ。生神とはここに神が生まれるということであってと、自分の心にですそこに、天地の働きと神の働きを感じた時に有り難い勿体ないというものがです、子供でも感じれれるのである。その例えば一瞬であっても、その時はもうすでに金光大神なんです。
だから金光大神というとなにか神様、だから神ねぇ神というとやはりこう人間離れのしたもの、ところに神を感ずるというふうに申しますけれども、そうではない。私共が教えを頂いてありがたいなぁと感じる時にそこにはもう生神が誕生しておられる。その誕生をです、私共がそのがっちりと受け止めて、それを育てていくというのがお道の信心です。なのであります。その有り難いという心を育てていくという事。
あれはいつでしたかね、御理解に頂きました事があったが、暖冬や暖冬やはま何とかづたいをかそう、かそうばへとか何とかいう様な俳句でしたね、誰の句か知らん。それに御理解頂いた事があります。暖冬や 何とか浜づたいに、その火葬場へとか何とかというような事でしたけどね、暖冬といゃ今年なんかは暖冬ですよね、暖かい冬という意味なんです。お互いがね、本当に寒いよりも今日はぬくしてよかというけれども。
実をいうたらね、今年ように暖かい日はいうならば作物なら作物の上でも、これは大変困った事なんです実は。やはり冬は厳しい寒さ、雪も降れまたは霜もあらなければね、本当のことじゃないのです。暖冬という事は、喜ぶことではないのです。私共の日常生活の上においてもそうなんです。平穏無事ばかりをみんなが思うとりますけれども、ね、人間がただ平穏無事ばかりあっては人間の心の成長もない。本当の例えば今日の御理解で申しますと神に会うチャンスというもの無くしてしまう。ね。
もうこれはまぁ殆どの人がというても良いのですけども、やはり様々な難儀の中から本当の神様を頂くのであり、本当の神様とのいうならば見神ですかね、そこに神を見る、神様に会うことができるのです。だからそのこと事態が本当に有り難い、いうならば神様の御働きであり、神愛であるとここでは悟れと教えられる訳ですね。それをそこをそれは困った事だという頂き方では、本当の見神はでけません。神様に会うという事もでけません。その難儀の中からね。
暖冬であるという事はそれはもう火葬場行きを意味しているという事なんです。庭の口を外へ出てみよ、空が神下が神、そこに私共が暑さを感じ寒さを感じる。いうならそこに難儀を感じる。その難儀そのものが愈々神の働きだと分かる。神愛だと悟らしてもらうところに、ね、その事の中に神を頂くことがでけ、神に会う事がでけるのです。新御理解という私は読みます。金光大神御理解、これは教典以外の最近本部で発表されました。その中にね、金神はみな家毎にござるなりという言葉がありますね。
金神というのは金の神様の事を、天地金乃神様のことですね。あの普通でいう金神様というあれではない。金神、金乃神とはみな家毎にござるなり。お守りを頂きたしとおして願いしね、お守りを下さいといってお願いしたところが、お守りはあぜのうちじゃと。あぜちいうのはあぜ道のあぜですね。と思うんです。だからひらがなで書いてありますけども、お守りはあぜのうちじゃと、体を養う者がお守りじゃろうが、その他にお守りはあるまいがと仰せられたりと。
今日のところが私がいおうとしとるところずばり仰っとられますね。お生かしのおかげ頂いとるというその事がお守りぞと仰っとる。素晴らしいことだと思うですね、あぜのうちというのは分かりますか。ね、日本古来の宗教から信仰から申しますと、お守り札をいうのがあります。ね、水天宮さんのお守りとか、ね、成田の不動さんのお守りとかというのがありましょう。けれどもそういうお守りを出すのはね、まぁだあぜのうちじゃという事。ここ辺では低級霊のことをあぜ走ると申しますね。
ちょいとした霊徳を現わすちょっとしたもんがありましょう。お伺いどころと言う様な所があってそしてそこの祠、そこの何々様拝んで神様のお指図を受けると言った様な、ね。そういうのをこの辺ではあぜ走るという。所謂低級な神の愛だぞとこう仰っとる。ね、だから低級霊に例えば縋るという事はね、低級霊にいわば支配されなければならないような結果が生まれてくる。これは又大変理屈っぽくなりますけどもね。
だから本当に信心もね、よほど考えさせて頂いて、いうならおおきな神様、いうならば金光大神のお取次を頂いて天地金乃神様を拝ましてもらうという事は、もう最高のうちの最高なんです。お守りを下さいとね。だから御神米とお守りと間違える人があります。御神米は決してお守りじゃない。ね、いわゆる大きなその天地の神様の働きをね、そこに受けるという事であってね、それはお守り、だからいうなら御神米を頂いとかなければならんということはない。
けどもそれを頂いておるとです、天地金乃神様を身近に感ずる、その身近に感ずることがです、はっ神様を頂いとる、神様を頂いとる、神吾と共にあるござるのだと思う。その心がおかげになるのである。お守りはあぜのうちじゃ、体を養うのもお守りじゃろうがと。その他に守りはあるまいと。体を養うという事がです、ね、日々この様にお生かしのおかげを頂いておるということは、天地金乃神様の御守護を受けておる。これより他に御守護はあるまいがと仰る。ね。
そこで日々私共がです、神様のおかげで、神様にお守り通しに守られてきとるおかげでと頂かなければならん。それが金光様のご信心であり、それがお道の信心、いわば神観である。そこに神に会うという事はいつも神様を頂いておるということになる。それをまたの言葉では、金神はみな家毎にござるなると仰った訳です。ね、いうならば天地金乃神様のお働きというのは、どこの隅であろうが、もうこの宇宙全体に遍満してござるという意味なんです。そういう神様をです、頂かして頂く。
それを神を神と実感するその心がありがたいのである。勿体ないのである。だから信心とはそれなんです。お守り様どもあてにしとる間はです、まぁだあぜ走りの神様の、と関係を持っておるという事ですから、実に恥ずかしいことです。先日ある人が財布を忘れとった。誰かが開けて見たけどていげい分かるとが、分からん。名前が入っとらん。中にはもうお守りさんがいっぱい入ってござる。勿論御神米も入っとる。
成田の不動さんも入ってござる。どこどこの何々様ちいうともう財布がいっぱいこげんなるごつ入って、お守りさんばっかりじゃった。それがもう合楽に何年も通うてきとる人です。ほんにもうがっかりしました。私共、天地金乃神様を本当に、天地金乃神様を頂いていない証拠です。ね、どうぞひとつ天地金乃神様をね、頂かしてもらう。そのその事をです、ね、例えば神様のお働きというものを私共が実感さしてもらう。
恵介君じゃないですけども、ね、十三番と背中を叩かれた途端にです、はぁ御守護の中にある自分というものを感じたとこう。ね、そういう意味でのいわば説き方というかね、を合楽ではね、成り行きを大事にする。御事柄とこういう。ね、そのなぜ成り行きを大事にしなければならないのか、それがそのまま神様のお働きなのだから、大事にしなければならなんのだと。そこから、ね、それこそ身近にまたは小刻みに神様をいつもここに感ずることがでける。だから有り難いのである。
神に会おうと思えば、矢張り難儀に直面した時に一番神に会うチャンスであり、機会であると、ここは頂いてもいい訳ですね。外に出てみよ空が神下が神と言う事はもう一切合切と言う事なんです。天地の中に起きてくる一切合切が、天地金乃神様のお働きだと頂けれるようになる。所謂御事柄として頂かれる。そこに生まれてくるのが、成程神様の御守護を受けておる印だなという体験もまた生まれてくる訳です。お守りを身につけるといったような信心じゃなくて、体を養う者がお守りじゃろうがと。ね、
私共がこうやってお生かしのおかげを頂いておるという事が、もう神様の御守護を受けておる印。これより大きなお守りがあるかと教祖様は教えておられます。そういう神様をです、頂きたい。そういう神様に会いたい、と私は思います。まぁお話をすればこれだけの事ですけれども、昨日博道君ではないですけども、ね、本当にこの生きた神様の働きの中に日々修行させて頂いておりましても、やはり生身を持っとる人間ですから、確かに親先生のそばにおるとそこに神様を見感じるのだけれども、ね。
それでも尚かつ分からないことが起こる、迷いが起こってくるという。その迷いが起こってくるその都度つどにです、本当の神様をいよいよ偉大な神様を把握していく。そこに悩みが起こらなければ嘘だと。ね、そこにはっきりと感じる神様を、ね、頂かしてもらう。本気で神様に会いたい。そういう私は願いを持たなきゃいけない、おかげに会いたい、ではなくて本当の神様に会いたい。
本当にそれを実感してでけれる生活を信心生活というのであるならばです、ね、その神様を本当に、ね、繰り返し繰り返しの信仰体験の中から、ね、頂いていく。しかも頂いていくその神様が、ね、天地金乃神様、いわゆる空が神、下が神という偉大な神様をです、頂き抜こうとする信心が必要だということになります。この十二節は、ね、お道でいう神様とは、ね、という、いうなら金光教では、神はどう見ておるかと、いわゆる神観なのです大体。けどもそこからです、ま、合楽風に今日は頂いた訳ですね。
どうぞ。